風水都市
風水師・有希
伝統風水では、住宅を建てる理想の地形として、・白虎・鳳凰・玄武(黒い大亀)の四神で守られた地形あるいは地勢として
四神相応
が理想であるとされてきたことは
理想的な住宅の立地条件
で解説しました。
日本で最初に風水の四神相応の思想が取り入れられたのは日本で最古の寺院と言われる『飛鳥寺』でしょう。
中心に仏塔を配置し、背後の玄武・左右の青龍・白虎には金堂が配置され、前方には鳳凰に相当する門や通路があり、
仏塔が金堂に守られながら、繁栄するという風水の思想に基づいています。
これは、推古天皇から寺を建てるべき土地を検討するよう依頼された聖徳太子が、
中国に人を派遣し風水を導入したことがベースになっているようです。
元々、四神相応は理想の都市造りから考え出されたものであり、四神相応の条件を備えた地勢が理想の風水都市と考えられています。
日本においても風水は、飛鳥寺の建造以降、理想的な都市造りに利用されるようになって行きます。
ここでは、理想の風水都市の例として、京都、東京(江戸)、名古屋についてご紹介しましょう。
なお、日本では、青龍を流水に、白虎を大きな道に対応させるという考え方が普及しているようですが、
中国伝統風水では、青龍・白虎の意味は、玄武よりも低い山・丘陵あるいは丘を意味します。
したがって、四神相応とは、背後に山、前方に川・湖・海あるいは道路が配置され、左右が丘陵で囲まれた地形を指します。
また、日本では背後の山は北側に固定されがちですが、中国伝統風水の飛星派風水では吉凶を判断する方位は固定されておらず、
住宅の方位と三元九運で変化するため必ずしも北側である必要はありません。
風水都市 - 京都・東京・名古屋
聖徳太子が日本に風水を導入して以来、平安時代、鎌倉時代、戦国時代、江戸時代と、風水を取り入れた風水都市造りは脈々と受け継がれてきました。
背後の玄武や左右の青龍・白虎は、中国においては北方民族の侵攻を防ぐと共に、北風を防ぎ、風を蓄え水を集めるという意味があります。
日本においても、特に戦国時代の城作りにおいて、武将達はこの風水を思想を取り入れて、敵の侵攻を防ぐために城造りに活用していたようです。
ここでは、風水都市としての特徴がより顕著な、京都、東京、名古屋についてご紹介しましょう。
都市全体として、風水的に理想の条件を評価すると以下の順位になります。
ただし、都市の細かい場所によって個別の土地の風水的な評価は変化しますので注意して下さい。
- 京都 ・・・ 四神相応の風水都市
- 名古屋 ・・・ 四神相応の風水都市だが玄武と白虎からやや離れすぎたまずまずの風水都市
- 東京 ・・・ 青龍が無く、玄武と白虎から離れすぎ、天海僧正がかなり無理して建造した風水都市
風水都市の目次
平安京を建造する際に京都が選ばれた理由は、この土地が四神相応の理想の地形であったためと言われています。即ち、北の玄武として沢山、城山、貴船山、鞍馬山などの山々があり、東の青龍として比叡山、大文字山、音羽山があり、 西の白虎として嵐山、高雄山があります。そして、南の鳳凰としては、宇治川や数々の道路があり、これらが京都の平和と繁栄をもたらしています。
東京は、北の玄武・西の白虎から遠く離れており、土地が低く平坦であるため水害の危険性がある点と、東からの攻撃に弱いという点で風水が理想とする地形には恵まれていません。しかし、徳川家康に知恵を授けた天海僧正は、鬼門に東叡山寛永寺を、裏鬼門には目黒不動を置き、また江戸城を取り囲むように、五行説の色を表す目黒不動・目赤不動・目白不動・目青不動・目黄不動を建造することにより江戸を風水都市に仕上げました。
名古屋市すなわち旧尾張国は、織田信長、豊臣秀吉、柴田勝家といった有名な武将を多数輩出し、これらの武将の影響を大いに受けた都市です。また、徳川家康が天下統一の最後の布石として名古屋城を築き、その後も徳川御三家の一つとして栄えました。この中で、江戸城や日光東照宮の建造に風水の思想を取り入れた天海僧正をブレーンとして抱えていた徳川家康は都市造りに最も風水の思想を取り入ています。